慰霊碑・記念碑
伊江島の北部にある石碑とガマ。 特設警備工兵隊は空襲等により破壊された飛行場や施設の復旧が主任務でした。
渡嘉敷島の道沿いにある碑。 沖縄戦時、渡嘉敷島であったとされる集団自決について、碑文に刻まれている。
沖縄戦において米軍は慶良間諸島には1945年3月26日・27日に上陸し、艦砲射撃と上陸する敵兵に軍民共々混乱し、山中などに避難した。 塔には大東亜戦争及び沖縄戦での戦没者、594名(平成20年3月1日時点)の名前が記載されている。
日本軍に慰安婦として連行された女性らの慰霊碑。
渡嘉敷集落の近くに残っている大岩。 昔、渡嘉敷島に住んでいた「鬼慶良間」により架けられた橋とされる。
大津島内にある鬣山の頂上。 回天の搭乗員らの間では登山競争などが行われていた。
回天記念館前に設置された鐘。 長門型2番艦の「陸奥」の第3砲塔にあった薬莢約100㎏が使用されている。 回天搭乗員の遺書が刻まれている。
大阪城ホールの近くにある碑。 アジアトップレベルの軍需工場「大阪砲兵工廠」がこの地にあったことを伝えている。
陸軍が1930(昭和5)年に建造した、東西に延びた小火器の射撃場。 戦後は自衛隊が利用したが1968年に撤去された。 跡地は大阪城公園の駐車場となっている。
沖縄根拠地隊司令官「大田實」海軍中将の生誕地に建立される顕彰碑。
八重瀬岳中腹に残る病院壕。 第24師団第1野戦病院が手術場として使用した場所で、沖縄県立第二高等女学校の女子学生により編成された「白梅学徒隊」がこの場所で勤務していた。
戦時に存在した岩川飛行場から沖縄方面に飛び立ち散華した105名の御霊を祀る。 かつての滑走路の端に建立されている。
国分飛行場(第一国分基地)跡に建立された碑。 国分海軍航空隊が香川県に移転していった後、国分飛行場は特攻基地として使用され、400名余りが沖縄方面へ飛び立った。
原爆の熱線を真上から受けた為、土台に影の部分が焼き付いている。
旧太田川近くにあった陸軍病院跡。 原子爆弾の投下により崩壊したが、生き残った病院関係者は川のほとりに掘っ立て小屋を建て、負傷者の処置を行った。
広島城内に残る遺構。 日清戦争期、軍を指揮する為に明治天皇が一時滞在した場所で、現在は基礎のみが残る。 元々は第5師団司令部の建物だった。
住宅街に残る広島陸軍糧秣支廠の倉庫の一部分。 爆心地から約4.6㎞離れていた被爆建物だった。
宇品中央公園内に建てられた碑。
「明治天皇がこの地に馬を止め、統監した」のを記念して建てられた。
揮毫は元帥の山形有朋。 昭和2年に建立され、傍らには「城辺町陸海軍戦没者ご芳名」が建つ。
伝統産業である製糖業を象徴している煙突で、県内でも希少な昭和前期の製糖工場の遺構。 平成25年6月に国登録有形文化財に登録されている。 旧日本軍による強制接収によって操業停止となり、戦後も使用されることはなかった。
火除け(火返し)として設置された村落獅子では最大最古の石彫獅子。 戦中には弾除けとして利用されてる様子が写真に写されている。 無数の弾痕が残っている。
戦前・戦中において、御真影(天皇・皇后の写真)を納めていた建物。 御真影は各地の学校に下賜されており、この地には「謝花国民学校」が建っていた。
沖縄戦時,「荒崎海岸」へ追い込まれた10代の女子学生「ひめゆり学徒隊」が手榴弾にて自決しました。
西原町内の陣地壕で発見された陸軍の火砲。 1930年中頃に正式に採用された火砲で、日中戦争・太平洋戦争の主力兵器として活躍した。 東京都の靖国神社にも同砲が展示されている。
シュガーローフとはゆいレールの線路を挟んで反対側にあった激戦地。 かつてはお墓が点在する丘陵だったが、土地開発されて住宅街になっている。 丘陵上部にある公園に、発見された日本軍の備品が野外展示されている。
嘉数高台公園内に残る慰霊碑。 京都之塔・嘉数之塔・島根の兵奮戦之地碑・青丘之塔がある。
読谷山国民学校の跡地となる運動公園の一角に残された忠魂碑。 揮毫は陸軍大将の「鈴木壮六」。 昭和10年10月20日に完成したとされる。
糸満市を見渡せる小高い丘。 さんてぃんもう公園に整備されており、公園の一角に「国旗掲揚台」や「防空監視哨跡」などの遺構が残されている。
真栄里地区の住民によって昭和27年3月に建立された慰霊塔。 傍らには歩兵第22連隊について書かれた石碑がある。