黒しばわんこの戦跡ガイド

沖縄県を中心に、各地に残る戦跡を紹介したり、歴史上の人物を紹介します🐶

糸満市伊原に残る「伊原第一外科壕跡」

ひめゆりの塔から直線距離で約300mの場所にある自然壕があります。
この自然壕は「伊原第一外科壕」と呼ばれており、沖縄戦時には沖縄陸軍病院の機能が置かれた場所で、ひめゆり学徒隊の女生徒も滞在した場所でした。

 

 

名称 伊原第一外科壕跡
住所 〒901-0344
沖縄県糸満市伊原
解説 伊原第三外科壕から約300mの場所にある自然壕。
沖縄陸軍病院の機能が置かれた。
難度
A

 

 

ひめゆりの塔も建立されている伊原第三外科壕に比べ、伊原第一外科壕はそのままの姿を残しています。

入口

 

5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕とし、第一外科壕、第三外科壕を伊原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒とも配属されていました。

廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ分散した各外科壕を統一しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。

6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい範囲攻撃の中をさまようことになりました。

「沖縄陸軍病院山城本部壕」案内看板より引用

 

 

この壕は「伊原第一外科壕」「アブチラ壕」とも呼ばれ、現在のひめゆりの塔の場所にある「伊原第三外科壕」と同じく、沖縄陸軍病院の職員や「ひめゆり学徒隊」が避難していた壕の一つです。

ひめゆり学徒隊は、県立第一高等女学校と沖縄県師範学校女子部の女子生徒と教師で構成されていました。

当初は伊原集落の避難壕として使われ、1945年5月末に現:南城市沖縄陸軍病院糸数分室(アブチラガマ)の勤務者が移ってきます。

 

国道沿いに立つ案内

 

証言によれば、壕の入口は松の丸太や土嚢で偽装し、入口にカマド、奥に便所があり、粗末ながらも二段ベッドを作り置いていました。水は壕の南にあった共同井戸を使用しました。
この壕の南にあった「沖縄陸軍病院山城本部壕」に砲弾が直撃すると、本部壕・波平第一外科壕・糸洲第二外科壕が壕に合流します。
6月17日、この壕の入り口近くに砲弾が直撃、ひめゆり学徒・病院関係者・炊事婦が死傷し、その翌日の18日には引率教員によりひめゆり学徒らに軍の解散命令(学徒解散命令)が伝えられ、女子学生らは壕を後にしました。

 

 

大きな窪地のような形状をしており、最底には地下への入口があります。
現在は壕内は水没しています。

 

那覇市山下町に残る「垣花陣地壕」

那覇西高校と奥武山公園の間に「がじゃんびら公園」という東西にのびる細長い公園があります。
園内は坂道や階段が多く、ウォーキングに利用している方が多い場所です。

「がじゃんびら」というのは奥武山公園付近の「垣花」から、自衛隊の駐屯地である「安次嶺」付近まで続いている坂の名称で、「がじゃん」は蚊、「びら」は坂の方言です。
がじゃんびら公園の西の端には、円形の広場があります。
かつて、この広場には日本陸軍「独立高射砲第27大隊」が使用していた高射砲が据えられていました。
また、丘陵内には先の戦争中に使用された陣地壕も残されています。

 

 

名称 垣花陣地壕
住所 沖縄県那覇市山下町
解説 垣花丘陵内に残る陣地壕跡。
入口には碑があり、内部には崩落もみられる。
難度
D(丘陵内に放置)

 

 

陣地壕入口

 

碑と壕内

 

道の無いジャングルの中にかつての陣地壕が開口しています。
入口前には碑が建立されています。

垣花陣地壕内部図(適当)

 

入口から少し下ります

 

入口から10m地点で通路は崩壊しています。

 

匍匐前進でギリギリ進める隙間を進みます。
3~4mほど匍匐前進すると手掘りの壕が広がります。
多くの場所に水が溜まっているのが分かります。

瓦礫を抜けると…

 

逆方向から撮影

 

横穴も壕内各所に掘られています。
この穴は入口は1mも無く、内部も狭いです。

 

坑木を設置していたと思われる痕跡

 

壕内には天井が崩落した場所もあります。
泥っぽい雰囲気なので、この付近の地質は島尻泥岩でしょうか?

 

壕内に残る戦争の記憶

 

 

 

 

「統制陶器」は、政府が管理された陶器号です。
有名どころの窯元をはじめ、この陶器に書かれた「統制番号」を見ると製造場所が分かるようにされました。

入壕して崩落部分を越え、T字路部分まで来ました。

 

壕内は途中で枝分かれしています。
T字路部分を右に行ってみます。

 

右手に進んでからT字路方向を撮影。

 

右手奥にある通路。
ぬかるんでかなり歩きにくい。
この通路の幅は1m程、高さは1.9mで余裕がある。

 

 

通路の奥は崩落していました。
崩落というより、土地開発で埋められた?

 

通路の入口にあった軍靴の残骸

 

T字路部分まで戻り、左に進んでみます。

 

T字路まで戻ってきました。

 

天井に延びている鍾乳石(ストロー)

 

通路横に掘られた横穴。
先ほどの穴よりはるかに大きく、人が2~3人入れそう。

 

通路に置いてあった物体。
バッテリーっぽい雰囲気で、手のひら大の大きさだが結構重量がある。

 

針金が巻かれた木材の跡。
戦中の物かは不明。

 

水没部
膝下くらいまでの水位があります

 

15mくらい進むと水没部を抜けます

 

広かった通路が再度狭くなります。

 

水没部を越えて、再度狭い通路に入ります。

 

溶けだした石灰成分が床面に広がって固まっています。
八重瀬町のメーヌスンダガマと同様、なかなか綺麗です。

 

ライトに照らされ輝く床は緩やかな上り坂

 

軍靴の残骸

 

ビン類は床の石灰分に埋まって固まっています。
この場所に長い間放置されていたことが分かります。

 

 

通路の左右には横穴が増えてきます。

 

横穴は大人が余裕で横になれる程の大きさがあります。

 

この横穴には、内部に更に掘りこみがあります。

 

横穴の中に軍靴の残骸がありました。

 

この横穴の内部にはこれでもかという程に釘が打たれています。

 

壕を掘った時のツルハシの跡

 

そろそろ土砂の流入が激しくなってきました。

 

横穴内部

 

どの横穴も綺麗に掘りこまれています。
ランプなどを置いた窪み。
周囲の壁面に比べ、やや黒く煤けています。

 

大日本麦酒株式会社(大日本ビール)のビン

1906年から1949年まで存在したビールメーカーでしたが、戦後の財閥解体のあおりを受ける形でアサヒビールサッポロビールに解体されました。

ここで行き止まりです。
栄えている那覇市内にある割には、かなり広い壕でした。

南城市知念久手堅に残る「ウローカー砲台跡」

国道331号線沿いにウローカーへの入り口があります。
といっても、草が茂っているので一目見ただけでは分かり辛いです。
本来、ウローカーは斎場御嶽から行くことができますが、現在は土砂崩れの影響で斎場御嶽方面から行けなくなっています。
道路側からだと20m程獣道を進むとウローカーへ行くことができます。

 

 

名称 ウローカー砲台跡
住所 〒901-1400
沖縄県南城市知念久手堅
(Googlemap:26.172599, 127.827944)
解説 斎場御嶽内の「ウローカー」と呼ばれる拝所に残っている砲台跡。
1944年から45年に築造されたとされ、現在は2つの砲座と箱状のコンクリート構造物が残っている。
難度
C (草が茂っている)

 

 

ウローカー砲台から直線距離で約500mの地点、現:がんじゅう駅南城近くには重砲兵第7連隊第2中隊が構築した吉岡隊陣地壕が残っています。

 

ウローカー入口
国道の山側にかすかに道ができた場所があります。

 

 

 

道路からウローカーまでは約20m程、徒歩約1分ほどです。

 

ウローカー

 

 

ウローカー
Uroka

ウローカーとは、丘陵上にある斎場御嶽から浸み込んだ雨水が、地下を伝って琉球石灰岩の岩盤下から湧き出した清らかな水で井泉です。
琉球王国時代より斎場御嶽の中に入る前に、手洗いなどの禊ぎを行った場所といわれており、当時の祭祀には欠くことのできない聖なる水として受け止められています。
ウローカーは、琉球石灰岩を整形した切石で造られており、水を溜める正方形の水槽とその前方にタイル状に石を敷き詰めた基壇から成っています。

 

現在でも少量ながらも水が溜まっています。

 

ウローカーから2つの砲台跡に道が続いています。

 

ウローカー砲台(西側)
沖縄本島東の海を見渡すことができます。

 

 

 

砲台跡

太平洋戦争の際、米軍の沖縄上陸のための防衛基地として建設された中城湾臨時要塞の一翼を担うもので、重砲兵第7連隊第2小隊(通称吉岡部隊)が構築したとされ、この砲台跡には38式野砲等の火砲が設置されていたといわれています。
現在2基の砲台跡とそれをつなぐ約60mのコンクリート道路とそれに付設する小部屋が確認されています。砲台は円錐状を呈し、上部には1.6m程の砲座が造られています。
砲座周囲には4ヵ所の排水口が設けられ、左右2ヵ所に弾薬庫と想定される小室が確認されています。
コンクリートの一部には迷彩のためか黒色の顔料が塗り付けられていました。

 

弾薬庫(推定)
幅約100cm、高さ・奥行共に約60~70㎝程に見えます。

 

 

砲台を繋ぐ60mのコンクリート

 

ウローカー砲台跡(東側)

 

砲座跡は直径約2mの円形、中央に10㎝程の穴がある。

 

 

 

弾薬庫(推定)

 

 

排水口
排水口は各砲台で4ヵ所あります。

 

この場所から米軍艦船に砲撃を行っていたが、反撃により砲が破壊され使用不可能になりました。

 

糸満市与座に残る「戦闘指揮所壕」

沖縄県糸満市与座の集落南側、上座原地内に人工壕が残っています。
用途は不明ですが、情報を探してみると「戦闘指揮所」という情報がありましたので、ここでは戦闘指揮所壕として扱います。

指揮所壕の壕口は集落がある北向きに3つの壕口が開口しています。
内部は崩落が激しい場所もありますが、大きいホールなどはある程度原形を保っています。
またホール奥の通路は、同丘陵内にある第24師団司令部壕に繋がっています。

 

 

名称 戦闘指揮所壕
住所 沖縄県糸満市与座
解説 与座集落南側丘陵に残る人口壕。
用途不明だけど、数少ない情報で「戦闘指揮所」とあったので、このサイトでは戦闘指揮所ということで扱います。
難度
D(常人は見つけられない)

 

 

集落側から木の生い茂る丘陵に入ります。
墓群へ行くための道が途中までありますが、途中道を逸れてジャングルへ入ります。

 

 

壕は丘陵内にある神社の東側辺りにあります。

 

戦闘指揮所壕(壕口A)

戦闘指揮所壕内部図(適当)

 

地図では分かりやすくする為、通路は太目に記載していますが本当は人1人がやっとの広さで狭いです。
高さもないので匍匐前進になります。

 

壕口A内部

 

壕口Aを入ると直線に坑道が掘られ、5mくらい進むと登り斜面となっています。
坑道両脇には石が積み重ねてありますが、これはガマフヤーさんが遺骨収集で通路を行き来しやすくするために行ったものと思われます。
本来なら瓦礫が散乱して、簡単には行き来できなくなっていると思います。

 

5mくらい進むと登り斜面になる。

 

斜面の途中に大岩が。
これが落ちてきたら余裕で逝きます。

 

大岩の隙間を抜けると大きいホールに出ます。
ここには大きな崩落もなく、中央部分では余裕で立ち上がることができます。

壕口Aの先にあるホール。

天井の高い場所は3mくらいありそう。
中央部分にある窪みを進むと「第24師団司令部壕」へ行けます。

 

島尻泥岩?

 

ホールの奥に進むと、体一つすり抜けられるくらいの隙間があります。
この先の通路は第24師団司令部壕へ繋がっています。

 

中央の隙間が第24師団司令部壕へ繋がる通路

 

隙間から撮影

 

 

司令部壕入口の隙間からホール全体を見る。
中央に見える人の大きさから、ホールの大きさは分かりやすいかと。

 

次は壕口Bに向って進んでみます。
ホールへ入った場所右側に通路があります。

 

ホールから壕口B方向へ進みますが、この通路も狭いです。

 

ホールから壕口B方向を見る。
奥にかすかに光が見えます。
あれが壕口Bで、間には大岩や土砂が堆積しています。

 

大岩の左側も一応進めそうですが、かなり狭そう

 

大岩の前まで来ると壕口Bがすぐそこに見えます。
この周辺は手を地面に付けて伏せていくような高さしかないです。

 

壕口Bがありました。
手前の1mくらいの岩を越えます。

 

壕口B

 

次は壕口Cです。
壕口B入ってすぐに支線があります。
支線というか岩の隙間って表現の方が正しいかもしれませんが…

 

 

この隙間を入れば、先ほどの大岩の左側に出れるかもしれない。
めっちゃコウモリがいました。

 

下側にあるこの隙間を抜けます。
隙間が狭いことに加え、下り斜面なので危険です。

 

色々置いてありました。
左上のは缶詰の残骸でしょうか?

 

肩幅の広さもない岩の隙間。
一段低くなっているので慎重に降ります。

 

段差を降りると少し広くなっていました。

 

中腰位になれる高さがあります。
登り斜面の先に壕口Cが開口。

 

壕口Bのすぐ右側に壕口Cが開口していました。

 

壕口C

沖縄県庁最後の地「轟の壕」

那覇から国道331号線ひめゆりの塔方面に進み、伊敷地区の十字路付近にあるのが「轟の壕」です。
沖縄方言ではトドロンガマトゥルルシガマ,ドンドンガマとも呼ばれるようです。
国道から見ると全く分かりませんが、国道の隣に大穴が空いているなどまさか想像できないかと思います。

 

 

名称 轟の壕,トドロンガマ,トゥルルシガマ,ドンドンガマ
住所 〒901-0363
沖縄県糸満市字伊敷
解説 糸満市字伊敷の国道沿いにあるガマ。
ドリーネというすり鉢状の地形の底に入口がある。
最後の沖縄県官選知事「島田叡」がこの壕内で沖縄県庁の解散を伝えたといわれる。
南部に戦線が移ると日本兵も壕内へ避難した。
地下水が流れ込んでいるので、内部は湿度が高い。
難度
A

 

 

沖縄県中南部特有の琉球石灰岩の地質は、雨水などにより溶けやすい特徴があります。
地下に出来た空洞部分が崩れ落ちると「ドリーネ」というすり鉢状の地形が出来上がります。
「轟の壕」があるのはこのドリーネの底で、最深部には人が一人通れるくらいの穴が空いており、約100mの広さのガマに繋がっています。

 

国道からの入り口。
国道331号の交差点近くのこの階段が轟の壕へ繋がっています。

 

壕までの道。
特に案内もないので本当に道があっているのか不安になります。

 

ドリーネの入口。
進んでいくと下り階段が現れます。

 

鎖やロープがパイプに繋いであり手摺代わりになっています。

 

上からの景色。
下っていくとガマの入り口が見えてきます。
周りは静寂に包まれる中を降ります。

 

下っていくとちょっと開けた場所に出ます。

 

上の壕。
拝所があり、その後ろには小規模の壕があります。

当時は上の壕と呼ばれていて、狭いスペースに50人~60人の避難民と少数の海軍兵が身を隠していたといわれています。
住民の投降後、米軍により壕は爆破されたらしく当時とは形状が異なっているのかもしれません。

 

上の壕から更に下っていきます。
階段の形もいびつになってくるので転ばないように注意。

 

最深部から上を向いて…。
ドリーネ最深部から上を向いて撮影。
水もかなり滴っているので滑りやすいです。

 

「下の壕」への入り口。

最深部には人一人やっと通れるくらいの穴が空いています。
ここから先は太陽光も届かず懐中電灯無しでは進めない道です。
なお、黒いホースは壕内を流れる地下水を汲み上げる為の物だそうです。

 

壕内部

 

 

壕内は屈まないといけない場所もありますが、立ちあがり普通に歩けるくらいの高さの場所がほとんどです。

 

 

壕内には川が流れており、周辺の壕に繋がっているといわれます。

 

最奥に水が溜まっています。

 

沖縄戦以前、沖縄県庁は現在と同じ場所に存在していました。
沖縄戦の影が見え始めた1944年の10.10空襲により那覇市街は焦土となり県庁も宜野湾へ移転しますが、米軍上陸後は第32司令部のある首里城周辺の壕へ移転して業務を行いました。

後に第32軍司令部が首里から南部方面へ撤退する際には、当時の沖縄県知事「島田叡(シマダアキラ)」は南部へ避難している住人が巻き添えになることから反対します。
しかし、第32軍司令部は現:糸満市摩文仁に後退していきます。
以降、沖縄県庁職員らは各地の壕を転々としていきます。

1945年6月初旬、島田知事は数名の県庁職員と共に「轟の壕」へたどり着きます。
そして、この地で県庁の解散を宣言します。
この壕が沖縄県庁最後の地」と呼ばれるのは、名の通り県庁がこの地で解散したからといわれている為です。
その後、島田知事は摩文仁方面に向かったと言われていますが、遺体や遺骨は見つかっていません。

 

 

北谷町吉原に残る「機関銃陣地壕」

沖縄県中頭郡北谷町吉原の山中に構築壕が残っています。
壕までは急斜面となっており、這い上がるように壕口にアクセスします。

 

名称 吉原機関銃陣地壕
住所 沖縄県中頭郡北谷町吉原
解説 北谷町の山中に残される構築壕。
正確な構築者や使用者は不明。
沖縄戦以前は第62師団の独立歩兵第15大隊と独立歩兵第23大隊が周辺に配置されていた。
地上戦時には独立混成第44旅団独立混成第15連隊の第3機関銃中隊が配備されており、これが由来となり当時を知る人が「機関銃陣地壕」と呼んだ。
難度
D(山の急斜面に残る)

 

 

この壕は「機関銃陣地壕」とされています。
沖縄戦の時、この周辺には独立混成第44旅団隷下の独立混成第15連隊第3機関銃中隊が配備されており、そのこともあって当時を知る人は「機関銃陣地壕」と呼んだようです。

 

斜面を登ると壕口が見えてきます。

 

吉原
機関銃陣地壕(壕口A)

 

吉原機関銃陣地壕内部図(適当)

 

壕内は高さもあり、立ち上がって歩くことが出来ます。
米軍上陸以前の余裕があった時期に構築されたのかもしれません。

 

壕口A
(顔部分を編集してるので心霊写真みたいになってます)

 

壕口A横の壁面に「WA」と彫ってあります

 

壕口Aから入壕すると、すぐに小部屋があります。
小部屋の広さは5m×2mほどの広さがあり、骨壺や厨子甕が置いてあります。

 

壕口Aすぐにある小部屋

 

 

壁面

 

 

壁面には坑木跡が残っています。

 

坑木跡

 

小部屋から通路へ

 

壕口Bへ向かいます。

 

壕口B遠景

 

壕口Bから奥を見る

 

壕口Bからの景色

 

壕口Cへ向かいます。

壕口Cまでの通路

 

 

奥に壕口Cの光が見える。

 

この周辺の地層は砂岩と泥岩の混合層とのことです。
石灰岩に比べると砂岩や泥岩は脆いので、坑木跡が多いのも分かります。

明り置きにライト置いてみた!

 

 

 

壕口Cは崖の中に開口されており、アメリカンビレッジやアラハビーチなどが見えます。

通路から壕口Cへ

 

壕口C

 

壕口上部

 

すぐ隣にある壕口Dへ向かいます。
壕口Dは天井が崩落したのか、土砂が流れ込んだのか急斜面になっています。
壕口から外を見てみますが、草木が繁茂しすぎて何も見えませんでした。

 

 

壕口Dへの通路

 

壕口Dを下から見る。

 

壕口Dから外を見る。

 

壕口Dから降りる際にハブを発見しました。
ハブを見つけた時は静かに離れましょう!

 

ハブ

糸満市糸満に残る「糸満防空監視哨跡」

沖縄戦末期、総司令部を本島南部の摩文仁に移した第32軍。
以降は沖縄本島南部が戦場となりました。

現在、沖縄県糸満市には住宅とサトウキビ畑が広がる一方、多くの戦争関連の遺構が残されています。
その一つに糸満防空監視哨跡」があります。
防空監視哨は飛んでくる飛行機が日本の飛行機か外国の飛行機かを見分けたり、時には海上に現れた艦船や潜水艦を識別するために設置されました。

 

 

名称 糸満防空監視哨跡
住所 沖縄県糸満市糸満
解説 糸満市を見渡せる小高い丘。
さんてぃんもう公園に整備されており、公園の一角に「国旗掲揚台」や「防空監視哨跡」などの遺構が残されている。
難度
A

 

 

防空監視哨跡は山巓毛(さんてぃんもう)公園の中に土台だけ残されています。
この公園は高台になっており、現在でも周囲を見渡すことができます。
かつてはこの高台で飛んでくる飛行機の識別を行われていたのです。

 

糸満防空監視哨跡

 

糸満防空監視哨
山巓毛(さんてぃんもー)の頂上にある正八角形のコンクリート製台座は、戦時中の防空監視哨(かんししょう)の跡です。防空監視哨、上空に飛来する飛行機を速やかに発見し、敵・味方を識別して迅速、確実に防空軌間に通報するための施設で、空襲警報の発令など、防空上の判断の基礎となったものです。日本軍は米軍に比べ、レーダー開発が非常に遅れ、そのため人間の視覚聴覚によって敵機を発見する、防空監視を重要視していました。沖縄県では、防空監視隊本部を県庁に設置して県知事が統監となりましたが、実際の運営は警察が中心でした。また県内には11カ所の監視哨があり、糸満防空監視哨には哨長・副哨長などを含め21人が勤務していました。防空監視は18人が3班に分かれ、3交代制で24時間監視していました。1944(昭和19)年の10・10空襲の際には南東方向に米軍艦載機の大編隊を発見し、監視隊本部へ報告しましたが、空襲警報の発令は行われませんでした。

案内看板より引用

 

糸満防空監視哨跡の隣には折れた石碑があります。
これは「御大典記念山巓毛改修碑」と呼ばれます。

 

御大典記念山巓毛改修碑

 

この石碑は敵の攻撃目標になる為、地上戦前に日本軍に倒された物です。
土台などに残る損傷は戦争によって出来た傷跡です。
改修碑の左側には国旗掲揚台も残されています。

 

国旗掲揚

 

「皇太子殿下御誕生記念昭和九年八月一日建立」の文字が刻まれています。
鉄筋コンクリート製で、戦争の弾痕が各所に残されています。